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《誌上フォーラム:「国語学」と「日本語学」》
この際,日本語学を選択しよう
近代国家の概念装置としての「国語」とそれをめぐる思想的な問題点については,すでに周知の研究の掘り下げがされている。国語学か日本語学かという選択も究極的にはこの問題に連なることは言うまでもない。他方,このような大問題とは別に,国語学は,初等中等教育の学科目としての「国語」科と密接な関わりをもっていて,国語教育の様変わりの中で,学会生き残りの道を模索する必要を山口佳紀が本誌200集の冒頭の文章で提案した。私見によれば,国語学か日本語学かの名称選択の問題は,この山口の提案に,当面最も深刻に関わる事柄であると考える。わが「国語学」は,学校教科の「国語」の観念に重なっているのは明らかである。とりわけ国語学会の外にいる人にとって近代の国家装置としての国語より,教科としてのそれを国語学の観念に引き込んでしまうのは当然である。学校教科としての国語科がそれ自身成熟し,完結した教育体系であるのかどうか筆者は知らない。役所の学習指導要領には,それなりの記述があるのであろうが,教科としての「国語」が現実に何を求めているのか,その本音の部分を観察することができるのが入試科目としての「国語」の現状である。特に大学入試では,深く精確な「よみ」を要求する現代文と,同じく正確な「よみ」の能力を試す古文漢文が課される。注目すべきは,現代文の読解といえどもその技法の供給源が古文読解にあるという点である。古典本文を実証と想像力を駆使して深くよむという技術は,おそらく契沖の和歌注釈あたりから始まり,さらに本居宣長,冨士谷成章による古文口語訳の開発によって,きわめて精密な解釈技法を実現した。文章を深くよむという技法は,直接的には近世以来磨きぬかれたノウハウであり,学術としての近代文学もまた古典読解から派生してきた。国語教科書に掲載される現代の自然科学者や歴史学者の随筆,評論家の論説文なども古典解釈と本質を共有する手法によって国語教師から注釈される。いわく,「この言葉の背後に存する作者の真の意図は何か。」
しかし教科としての国語科が方法の根源に古文読解を抱えているにもかかわらず,その訓練を経て進学したはずの大学の国文科の学生は,古典文学の研究から急速に離れている。今や国文科の学生の大半は,近代文学を専攻するという。国文の学生が近代文学に殺到するというある意味でパラドキシカルな現実は,近代文学の隆盛の徴ではありえない,と当の近代文学の研究者が自覚している。つまり,このような事態は,学生の国文学からの離脱過程に過ぎないというわけである。かくして全国の大学では改組のたびに国文学や日本文学の看板がはずされ,大学院の国文学の博士課程では就職の目途の立たない院生が呻吟している。また,ここ数年来,高等学校の現場では「国語」科廃止の噂が流れており,筆者も耳にしたことがある。大学や高校におけるこのような動向は一連の趨勢とみなされるかもしれない。すなわち古典文学の解釈技術を中枢部分とし,全体として文学の鑑賞に重点を置いた国語科を見直そうとする動きである。この背景には,社会における文学の劇的な地位低下がある。従来の国語科が(古典)文学の解釈と鑑賞にその本質的性格を持つならば,この科目が遺憾ながら現実社会の要求に応えた仕組みになっていないことは明らかである。わが国語学は,研究者が自覚するしないに関わらず,構造的に文学の教科としての「国語」科を技術指導することによって成り立ってきた。われわれが,われわれの学問を「国語学」と呼ばなければならなかった理由の一つに,このような教育現場との相互依存関係がある。アカデミズムが,教育現場との協力関係を持つこと自体,責められるべきことではない。問題は,教育の目的と本質に学理の側がどう関わってきたのかということである。文学教育に奉仕するための国語学として,われわれは生き残っていけるのであろうか。含蓄に富んだ思想性の高い文章を精確に理解し,可能ならば自らも制作するという文学教育の理想は,現代人の書記生活の要求と明らかにずれを来たしている。現代人は,文芸の香気あふれる含蓄より明晰な文章を求め,高邁な思想性より論理的骨格に優れた達意の文章を書きたいと願っている。その結果,国語科の不十分を補うかのように,大学の教養教育では「日本語表現法」など,ことに臨んでの必修科目を組まざるを得なくなっている。稀有の才人によって書かれた名文秀句を多く読むことが教養人の証であったのに対して,文法的に正確で論理的な文章を産出する能力の養成という需要が優位に立っている。そこで,文章読解力を目標にした旧来の国語科ではなく,言語の運用能力に重点を置いた教科が注目される。われわれは,何か付加価値の高い経典の言葉を読み解くためではなく,若い人たちが自らの言語の仕組みを構造的に理解し,それを自在に使いこなす能力を伸ばそうとするのであれば,この教科を「国語」と呼んではならないだろう。そこで,わが学会は総力を挙げて学校文法を再建する責任を負うことになる。他方,本居親子を中心に頂点を形成した近世の古典文法は,高等学校で日本語研究史の偉大な成果としてそのユニークな認識を教える必要がある。古典文学とその解釈は,国民の文化遺産として当然継承されなければならない。その限りで,日本語研究者が文学教育と連携を継続するのは必要なことである。その結果,文法学に対するわが国民の偏見を取り除くことができれば,これに勝る成果はない。そこで筆者は,わが学会は「国語学」の名を捨てて「日本語学」を採用すべきであると考える。しかし,名称を変更しただけではその効果は極小にとどまるおそれがあるので,文学教育に偏った中等教育までの「国語科」を社会の要求に整合させつつ改革し,言語教育に応分の重点を置く「日本語」科の設置を学会として提案すべきであろう。その教育改革プランを併せて,この学会は,「日本語学会」として安定的に後継者の募集と育成を確保して,次世代を生き残ることができるのではないか。
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