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《誌上フォーラム:「国語学」と「日本語学」》
国語学と縦書き
国語(学)国文学科の出身者にとっては「国語学」という名称には違和感はないが,言語学や他言語専攻の研究者,日本語教育関係者が,自分の研究を「国語学」と呼びたくないと感じることは理解できる。もともと,国語学は国文学と共にできてきたものである。国文学者も国語学的研究方法は身につけており,国語学者も国文学的素養を基盤にもっているのが普通である。国語学は国文学的知識を背景に,国文学と綯い交ぜになって研究して行くことが多く,かなりはっきりとした方法や視点がある。国語学会はこの国語学を中心として,言語学,方言学の研究者が集まって結成されたが,結成当時には,専門の間の垣根はきわめて低かった。日本語に関する優れた研究であるならば,掲載を拒否されることはなく,門戸は広く開いていた。国語学会が無かった昭和初期,『方言』という雑誌があったが,この雑誌には当時の,国語学,言語学,方言学の先端的研究が満載であった。しかし,いささか偏りのある『方言』という名称は変えなかった。
名称や形式を変えるのには,はっきりとした理由がなければならない。日本語学者が多くなったという理由もあり得るだろう。『国語学』が横書きになったのも,恐らくそういう理由からであろう。同じ理由で名称を変えるのならすっきりする。しかし山東功氏が本誌205号に述べられている,「国語学」を使うことが,「日本語研究が背おった負の歴史に対する隠蔽」となり得るというような理由で,名称を変えるのは賛成できない。国語が駄目というなら,国文も同じであるし,明治や大正などの元号を入れた社名も国家意識の表れであった。正露丸はもと征露丸であり,一宇という名前も八紘一宇から,南さんの息子が「進」と命名されたのも南進政策の結果である。これらを「負」と言ってみても意味はない。言葉はいつも過去の積み重ねでできあがっている。その中には新しいものもあれば,古いものもある。その古いものがいつも昔の価値観を背負っているものではない。「アメリカの国語政策」「アメリカの国語は英語である」というような表現は昔から普通であった。インドやフィリピンにおける英語は公用語であるが,「英語はアメリカの公用語」とはまだ言えない。「国語」は普通名詞として機能しており,政治的なものでもなければ,特定の思想を表しているのでもない。沖縄では標準語を強制した時期があるが,「標準語」という言葉が負の歴史を背負っているとは言うまい。一つの時代を否定するとしても,その時代に生まれた言葉すべてを否定することはできない。清水康行氏も本誌200集で述べられているように,朝鮮半島や台湾では「国語」を強制し,満州国,中国大陸,タイ国などでは「日本語」学習を奨励した。当時,朝鮮半島と台湾は植民地化され,日本国内とされていたから「国語」の呼称を使い,満州などの地域は日本国内ではなかったから,「日本語」の呼称を使った。現在でも外国では日本語,国内では国語,留学生相手なら日本語と使い分けているはずである。当然,英語に訳すなら「国語」も「日本語」も同じ Japanese である。
ところで,日本語学関係の雑誌は,商業誌も,専門誌もあり,言語学会の機関誌もある。しかし国語学については『国語学』しかない。訓点語学会は国語学的研究の中心になり得る学会であるが,訓点語を中心にする方針を変える様子がないので,「国語学会」がなくなると,典型的国語学者は所属する学会がなくなる。新名称になっても国語学的研究を排するのではないが,横書きにしたのは,漢文訓読文を含む論文は後ろに回すという意味でもある。国文学と綯い交ぜになった,典型的な国語学的研究を行っている者には,横書きの「日本語学」には帰属意識が持てなくなるのは已むを得ないだろう。
『国語学』を横書きにすることについて,私がちょうど編集委員に当たっていた時に,委員の意見聴取があったので,「これまでも縦書きを原則としつつ,横書き論文も掲載してきているのであるから,変更には意味がない」という意見を述べた(ついでながら横書きに伴って,巻号制にするという案にも賛成しなかった。通巻では年度が分からないという理由だったので,それなら 2000-1 という分け方の方が まし であるという意見を述べた。巻号制に変わった現在でも,巻号制に変えた理由が分からない)。
大きな言語で,縦書きを維持しているのは,すでに日本語だけになっている。少数民族の言葉には縦書きが若干残っているが,中国語や朝鮮語も横書きが原則になり,韓国でも,最後まで縦書きを維持していたある雑誌も横書きになった。日本では,新聞・雑誌・国語教科書など,多くはまだ縦書きを維持している。国語国文の世界でも縦書きが原則である。縦書き文化からみれば,日本語は最後の砦となっているのである。本来,日本の文化や伝統を守ってゆくという意識があって良さそうな,日本語に関わる学会が,その縦書きの意味を全く振り返ることなく,横書きにしたことは,自国の文化に無頓着という日本人の性格の一つの表れではあるが,私は非常に残念に思っている。国語学会に対する愛着も,予想していた以上に,急速に萎んでいった。
しかし,横書きになってしまった以上,名称は変えざるを得ない。というより,横書きがすでに名称の変更を前提にしていたはずなのである。縦書きは国語学的研究を主とする,横書きは日本語学的研究を主とするとの意思表示である。あえて横書きに変えたのである。名称もその意志どおりに変えるべきである。学会名や機関誌の改名などは,横書きへの変更と比べると,心理的な,小さな問題である。早く改名して,この奇妙な横書きの『国語学』を無くしてしまう方がよい。変えられた名称を見てから,言語学会の日本語研究と棲み分けのできる学会誌になるのか,その一部門になってしまうのか,また,私のような国語学者でも帰属意識をもてるかどうか,考えてみたい。
もし,名称を変えないのなら,縦書きに戻すべきである。
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