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《誌上フォーラム:「国語学」と「日本語学」》
性急な「日本語学会」化への違和感
今回の,研究領域名と学会名の再考・検討が,研究領域名を学会として統一する,あるいは,少なくとも学会としての公式の研究領域名を提示するということであれば,それは,結果としてかなり強引なことになってしまうのではないかと考える(むろん,鋭意検討した結果,現状を鑑みれば,学会としては名称統一をせず,各研究者の学問的良心に任せる,という選択肢もありえよう)。研究領域名としての「国語学」および「日本語学」は,大学の学科および科目名称とも関わり,「(日本語)日本文学科」でありながら,専攻は「国語学」というようなところも多い。また,例えば,外国人の日本語研究者が「日本語学」を,「国語学」を専門とする研究者を指導教員として研究するということも,ありうる(その際,指導教員の側が,自らの研究領域を相手にどう告げるかは,さまざまでありえよう)。すなわち,現実に両者は共存しているのである。が,今回は,趨勢として,合一するとすれば「国語学」から「日本語学」へ,という一方向しかありえず,しかも,「国語学」を自らの専攻領域として名のりたいと積極的に主張しにくいという,一種アンフェアな状態になってしまっているのではないか。「国語学」は,名称として排他的であるとか,外国語に直訳すると理解してもらえないとか,外国語による言語学的成果に冷淡な印象があるとか,戦時中の国策加担を思い出させるといった,スティグマ(stigma《汚名・罪人の入れ墨》:佐藤和之氏が方言意識に関して用いるもの)の側面が強調され,何か踏絵のようなものになってしまっているからである(ちなみに,外国語に直訳すると,意味不明だから変えようというのは,本末転倒であろう。もとがどうあろうと,当該外国語で理解可能なように 意訳 すべきなのである)。そういったマイナスの部分だと指摘されているところの当否をきちんと検証・精算してから改名しても,遅すぎはしないだろう(し,そうあるべきではないのか)。
そのようなところをないがしろにしたまま,たとえば「国際化」といった曖昧な時流に乗って,性急に「国語学」という名を捨てて学会名を改めることは,強引なことのように思えてならない(現状においても,むしろ,学会名称こそ「国語学会」であるが,そのことで研究領域名を「国語学」一本に限定することを意図はしないということを,積極的にうたうべきなのではないか)。また,これも従来指摘されていることであるが,「日本語学」という名が,真に中立的な名でありうるのか,ということについても慎重に論議すべきではなかろうか。そこから,「国語学」か「日本語学」かという二者択一的な選択ではなく,さらなる第三の名の選択という可能性も生まれよう。
次に,「日本語学」という研究領域が,あまり実質的な勢力を持っていなかった時期(例えば,亀井孝氏が「日本語学」樹立を揚言した時期など)であれば,むしろ,「国語学会」から,いわば「空き家」の「日本語学会」への引っ越しは容易であったであろうが,いまや「日本語学」は,「国語学」とは,研究の方法から視点,カバーする領域などが異なる,独自の一家を構えている(むしろ,そのような点の差異化を目指したところに,「日本語学」の現在の隆勢の理由がある)。その「日本語学」を冠して,「国語学会」が「日本語学会」と名のるということは,あたかも,すべての「ダイエー」が「ローソン」と名を変えてしまうようなものである。大型小売百貨店である「ダイエー」とコンビニエンスストアである「ローソン」は,同一の企業グループに属するが,そのコンセプト,店舗形態などは異なるものである。それを,いわば「通りがいい」「若者向けだ」などという理由で,「ダイエー」が「ローソン」と名を変えてしまったなら,それまでの「ローソン」の独自の努力と事業展開は何だったのかということになろう(「ダイエー」のほうはよくても,「ローソン」は,それでいいのだろうか)。また,顧客の側からしても,「ダイエー」に入ろうとしたら,「ローソン」と名が変わってしまって,しかし,その実は「ダイエー」だということになると,まさに,狐につままれたような気分になるのではなかろうか。いや,名を変えるだけではなく,従来の「ダイエー」とも「ローソン」とも違う,別の店舗・営業形態になるのだということなのかもしれないが,それならば,名ばかりでなく,まずその青写真が提示されるべきであろう。
その際,話を戻すと,「日本語学」の側に,研究分野としての体系性が,充分に批判(Kritik)された結果として,完備・成立しているのかということも,疑問である。例えば,これまでの「日本語学」には,史的研究の部門が明確なかたちで存在してはいないように思われる。「日本語史」を名のった研究者はいたが,それは,主として「国語史」の側の人々が「日本語学」に共鳴・協調して名のったのであって,「日本語学」が独自の共時的研究を重ねる中で,自発的にその必要性を痛感して樹立したものではない。そうであってみれば,むしろ,従来,自発的・積極的に「日本語学」を名のってきた人々が,「学」としての体系を樹立したのちに,大同団結の道を探るということを考えてもよい。その場合,一度つくりあげられた「日本語学」は変容を余儀なくされようが,それは,合一していく側の「国語学」も同じことであり,その点での不公平さはないように思う。いずれにせよ,性急な「国語学会」の「日本語学会」化,あるいは,はじめに「日本語学会」化ありき,という状況は避けたいように思う。
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