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総 記
この号では,1998年から1999年にいたる学界の動向の展望をこころみる。展望なんて無味乾燥な論文題目の羅列さという,わけしり顔の通言をしらないではないが,それはなかみをよまないひがごと。実際は,なかなかに充実している。この号の執筆者も,かぎられた紙数のなかで,それぞれに工夫をこらしている。各位には,あつくお礼をもうしあげる。
それだけをしるせば,この[総記]という項の役目はおわりであるが,それではミもフタもないといわれそうである。そこで,くるしまぎれのフタをこしらえてはみたが,別にくさいものをおおうつもりはない。閑文字をつらねるのみである。
国語学界あるいは日本語学界の活動が本学会の活動範囲にのみおさまるものでないことは,いうまでもない。しかし,本学会の活動として,春秋2回の研究発表会がおこなわれ,年間4冊の機関誌が刊行されているからには,学界の動向をみるには,まずはそれによるにしかない。そうはいっても,それさえもおっくうなので,機関誌である『国語学』にどのような論文が掲載されたかという小調査をこころみて,マクラとする。
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当該期間の2年間に『国語学』に掲載された論文がこの展望号のどの分野でとりあげられているかということを次ページに数字でしめす。分野の数は15であるが,[総記]および[海外における日本語研究]は,のぞいてある。
今期(1998-1999) | 前期(1996-1997) | |
国語学史および国語研究資料 | ― | 6 (3) |
文法(史的研究) | 7 (1) | 5 (3) |
文法(理論・現代) | 12 (3) | 1 |
語彙(史的研究) | 4 (2) | 3 (2) |
語彙(理論・現代) | 2 (1) | 2 |
音韻(史的研究) | 8 (4) | 3 (3) |
音韻(理論・現代) | 4 (2) | 3 (2) |
文字・表記(史的研究) | 3 | 1 (1) |
文字・表記(理論・現代) | ― | ― |
文章・文体 | 2 (1) | ― |
言語生活 | ― | ― |
方言 | 4 (2) | 3 (1) |
数理的研究 | ― | ― |
言及論文数/掲載論文数 | 37/41 | 18/28 |
まずは,中央の「今期」というところをタテにみてほしい。合計すると,論文数は,のべ49編となるが,同一の論文が重複して引用されているばあいがあるから,それをのぞけば,とりあげられた論文数は,ことなりで37編である。掲載論文数は41だから,約9割がなんらかの形で言及されていることになる。もちろん,単なる内容の紹介にとどまらず,評価の対象になったものもあれば,ただ題目だけがしるされたものもあるが,その差はとわない。
[文法(理論・現代)]がもっともおおく,[音韻(史的研究)][文法(史的研究)]がそれにつぐ。[国語学史研究及び国語研究資料][文字・表記(理論・現代)][言語生活][数理的研究]の4分野には,該当する論文がない。[文法(理論・現代)]を別にすれば,史的研究に属するものがおおくみられるが,今期は第196集(1999.3)で「国語史研究の方向」という特集をあんでいるので,それが影響しているのかもしれない。
わずか2年のあいだのことでもあり,これが偶然の結果である可能性はきわめてたかい。そこで,前期の2年分を右の列にしめしてみた。掲載論文数に比して言及論文数がすくないのが目につく。これは,担当者の執筆態度に原因がある。前期の[文法(理論・現代)]の執筆者は,網羅主義をとらず,研究の動向を重点的に把握するたちばをとった。この分野に属するこの期の『国語学』掲載論文は9編あるとみられる。それを考慮すれば,[文法(理論・現代)]に関する論文は,今期も前期も量的にはもっとも多数をしめているといってよい。
ついでにいえば,このような調査をして,筆者(野村)は各担当者の執筆態度を評定しようとしているのではない。過去3回の展望の執筆で,筆者はどちらかといえば,研究の動向をとらえることに重点をおいてきた。それと反対に,網羅主義というと語弊がありそうだが,事実をもってかたらしめることに意義をみとめる担当者があっても,さしつかえない。いずれにしても,ある常識的な範囲のなかでの相対的な態度のちがいである。
[文法(理論・現代)]のほかでは,[国語学史研究及び国語研究資料]の異同が目につく。これは,たまたま前期にその分野に属する論文が集中した結果である。それとともに,この分野はなにを対象とするかという視点のおきかたで,かなりちがった内容になることも関係している。全体の掲載論文数にも差があるが,今期のほうが投稿数もおおいということはたしかである。これが一時的な現象であるか今後も継続するものであるかはわからない。
[文字・表記(理論・現代)][言語生活][数理的研究]の3分野は,今期も前期も該当する論文が掲載されなかった。これらの分野の活動がそもそも不活発なわけではない。それぞれの項をよめばわかるように,国語学会以外のところでの活動はさかんである。[数理的研究]には,『計量国語学』という発表の場がある。[言語生活]にかかわる学会として社会言語科学会が設立され,『社会言語科学』が創刊された。
それにくらべると,[文字・表記(理論・現代)]は活動そのものが不活発な印象がある。漢字コードの問題は今期もさかんにとりあげられたが,[数理的研究]とかさなる。情報学や心理学の研究はあるが,国語学独自の研究はすくない。4半世紀前に,筆者がはじめて[文字・表記]の展望を担当したときに,「史的研究」と「理論・現代」は分離していなかった。文法,音韻,語彙などとの比較で,筆者はそれに不満めいたことをのべた記憶がある。
そののち両者は分離したが,「史的研究」はともかく,「理論・現代」は独立した領域を主張するだけの裏づけがあるのかどうか懸念がないでもない。論文や報告の点数の多寡ではなく,質に関する疑問である。国語審議会が表外漢字の字体の検討などということに,5年も6年もついやしているのをみると,われわれが基本となる理念を提出していないからではないかという自責の念にかられることしきりである。
こうしてみると,『国語学』は[文法][音韻][語彙]という伝統的な研究分野にささえられている。そして,[文法]をのぞけば,史的研究にかたむいている。かりに,現代語の文法や理論的研究を中心とする学会が設立されたとしたら,現在の研究論文の量的な分布はどう変化するだろうか。仮定の話だから,まったくの想像にすぎないが,おそらく今よりも史的研究の比重がおおきくなることはまちがいない。
そういう事態がおとずれたとして,国語学会の存在意義はどうなるだろうか。各種の専門学会の上に君臨するスーパー学会となり,世界中の日本語学者を糾合する中央学会となるのか。それとも,中世末期の朝廷や幕府のように伝統的な存在として敬意をはらわれはするものの実質的には内容をもたない形骸化した機関になりはてるのか。そのことは,われわれの学問の対象が「国語」なのか「日本語」なのかということ,学会の名称である「国語学会」を「日本語学会」に変更することの可否にかかわっていく。
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「国語」および「日本語」をめぐっては,近年,イ・ヨンスク,安田敏朗,ましこ・ひでのり,子安宣邦など,いわば学会の外からの刺激的な発言がある。なかでも,「元・国語学徒」と自称する安田は活動的で,つぎつぎと「国語学」研究者に対する批判の書を刊行している(今期の著作については,本号の[言語生活]を参照してほしい。前期の著作については,鈴木広光の意欲的な書評が本誌第192集にある)。これらの批判に共通するのは,「国語」も「日本語」も政治的な意図にもとづく名称であり,「国語」から「日本語」への改称は「すりかえ」にすぎないとすることである。ただし,それではどうすべきかという提案はない。それは,研究者であるわれわれがみずからかんがえなければならない問題だとされる。
たとえば,思想史を専門とする子安は,漢字受容をめぐる国語学者・日本語学者の歴史認識にふれ,つぎのようにのべている。
日本における日本語をめぐる言語学的な状況は大きなゆれのなかにある。日本語の研究者を「国語学者」とよぶか「日本語学者」とよぶか,あるいは「言語学者」とよぶかは基本的にはかれら研究者の自己認識のあり方にしたがうしかない。これに対して,国語学界の正面からの反論はみられないが,『国語学』では,第200集の記念号(2000.3)で「日本語研究の将来と国語学会」という特集をくんだ。このタイトルが「国語研究の将来と……」でないことに,すでにひとつの選択があるとおもわれても当然かもしれない。学会および機関誌の名称については,「日本語」を支持する鈴木重幸,「国語」にかたむく清水康行,その中間にある石井久雄の発言がある。
(子安宣邦「『漢語』とは何か」,『思想』899,1999.5)
前々回の展望号である第185集(1996.6)の[総記]で,北原保雄は「区切りのよいところで,学会名や機関誌名を改めることを検討してはどうだろうか。」とのべている。前回の展望号の[総記]では,山口佳紀はほぼすべてをこの問題にあて,つぎのように明確な態度を表明している。
自らの携わる学問の名称が,いつまでも「便宜」にとどまることは,決して望ましいことではあるまい。歴史的研究も含めて「日本語学」と称するのが,妥当であると考えられる。(『国語学』193,1998.6)もはや機は十分に熟したようにおもえる。なんらかの形で会員の総意をとうこころみがおこなわれてもよいのではないだろうか。もちろん,結果は予測できない。1997年秋の山形大学でひらかれた大会でおこなったアンケート調査では,代表理事であった徳川宗賢の報告によれば,学会の名称は今のままでよいとする回答が75パーセントをしめた(『国語学』192,1998.3)。回答者は150名あまりだったから,とても総意を反映しているとはいえないが,なにごとにもせよ,改革ということには消極的な会員一般の気分をあらわしてはいるようである。
しかし,山口のいうように,いつまでもこの問題を放置しておくべきではない。「国語」にとどまるにせよ,「日本語」をとるにせよ,批判があるのはいうまでもない。その意味するものを明確にしたうえで,批判をおそれずに,態度をはっきりすべきである。われわれの学会がなにをめざして研究する団体なのかということを,会員ひとりひとりが熟考するときに,今はたちいたっている。
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