日本語学会

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200集記念号・寄稿

(『国語学』200集 2000・3・31 p.12-14)

「国語学」という選択

清水 康行

一 日本語学から国語学へ
 近代「国語」研究の言挙げといえる上田万年(一八九四)において、その対象となる言語の呼び方が「日本語/日本国語/国語」の間で揺れていたことは知られていよう。それを研究する〈学〉の名でも、「日本語学」「国語学」という言い方が一度ずつ見える。
 早めに注意しておくと、〈日本語学〉なる称呼も近年に始まったものではなく、〈国語学〉も古来のものではない。『国立国会図書館蔵書目録』で刊年を示す中では、那珂通世『国語学』(一八八九−九一)と岡倉由三郎『日本語学一斑』(一八九〇)が、それぞれの名を持つ最も早いものである。『早稲田大学図書館編 明治期刊行物集成』には、堀秀成『日本語学階梯』(一八七七)がある(国語学会(一九八〇)では、堀が「日本語学」の最初、岡倉が次ぐが、「国語学」の方は、那珂は載らず、関根正直『国語学』(一八九一)が最初)。両者とも、一八九〇年前後に一般化する称呼といえよう。
 上田に戻ろう。欧州留学前の彼は、むしろ「日本言語研究/日本言語学/日本語学」という語を用いていたが、帰国後は、専ら「国語学」の方に傾いていく(京極(一九九三)が例数を示す)。そして、東京帝大「国語学」講座を担当すると共に、「大日本帝国の国語」の「過去に於ける歴史を討究し[…]現在に於ける状況を洞察し[…]未来に於ける隆盛を布図する」という「国家の[…]義務」を果たすべく「国語研究室」を創設する(一八九七年、引用は上田(一八九五)より)。近代日本の「国語学」は、ここに始まる。
 ここで注目しておくべきは、上田(一八九四)において、「国語学」という語が「国語に対する手入れ」の一箇条「国語学の歴史は如何」でのみ用いられていることである。留学前の彼は、「現今の博言学の学理に憑拠」する「科学派」として「在来の国学者」流の「古学派」を切って捨てた(同(一八九〇)、この点はイ(一九九六)の論ずる通り)が、留学後には、「日本ノ言語ノ研究ハ契沖ヨリ始マル[…]此時代ヨリ、国語ハ国民ノ知覚中二入ル」(同(一九八四)より)とし、自らの「国語学史」講義を契沖から説き起こす(更に源順・定家らを前史に置く)。かくして、〈国語学〉は、「大日本帝国」以前からの学問の歴史を直に受け継ぐこととなる。この時期の〈国語学・国文学・国史学〉が、他の諸学と異なり、日本古来の学問的な蓄積を自覚的に継承(或いは発見)していく、それも所謂洋行帰りの主導によって為されていったことの意味は、改めて問われなければなるまい。

二 国語学から日本語学へ
 もう少し上田に付き合う。彼が率いた国語調査委員会(一九〇二年設置)は「台湾朝鮮が、御国の内に入つて、其土人を御国の人に化するようにするにわ、御国の口語を教え込むのが一番である」(大槻(一九一七))と、日本帝国の新たな支配地への「国語」教化を視野に入れていたが、上田の射程は、そこに止まらなかった。彼は、早くから「日本全国を通じての言語をつくり出すのみか[…]東洋全体の普通語といふべき者をも、作り出さう」(一八九五)と主張し、時代を追って、「現代の日本語を海外に輸出する」(一九〇六)、「日本帝国の言語を東洋諸国の共通語、世界の国際語の一つとし」(一九二五)、「世界の民族が、日本語によらざれば今日以後の文明を維持することは出来ぬといふやうにならなければならぬ」(一九三三)と、論調を強めていった(安田(一九九六)に詳しい。右の挙例はその重引)。
 そのとき、対象として選ばれる言語の称呼は「日本語」であった。簡単に図式化していえば、帝国が直接支配した地域で展開する宗主国言語は(内地と同じ)〈国語〉で足りるが、関東州・満州、更には後の〈大東亜共栄圏〉諸地域での「共通語」(この術語本来の意味)は、より一般化され得る称呼〈日本語〉で呼ばれることとなった。
 上田の没後、一九三〇年代末頃から「時局の進展につれ、日本語の海外進出が漸く盛んになり[…]いわゆる「日本語熱」」(佐久間(一九四一))が起こり、『日本語の問題』『日本語の特質』『日本語小辞典』『日本語基本語彙』等々、「日本語〜」を名のる書が続々と出版される(国語学会(一九八〇)所掲。なお、同書では『世界に伸び行く日本語』『大東亜言語建設の基本』『東亜日本語論』『大東亜共栄圏と国語政策』といった書は慎重に避けられている)。「国語学」に代わる「日本語学」を提唱する動きも出てくる(佐久間(一九四一)等。これらを「国家語的観点からの「国語」論を批判」する「言語的観点からの諸氏の「国語」論」(京極(一九九三))と評価することも可能だが、その「時局」を考えれば、結果として「国家語」としての「国語」を拡大・強化する東亜「共通語」たる「日本語」の流れに棹さしたものと見るべきであろう)。

三 生き延びた国語学
 時局漸く逼迫する一九四四年、「国語問題、国語行政、国語教育、更に[…]国語の醇化[…]外国語としての日本語の教授法[…]国語学はこれら実践部面に確固たる理論を提供せねばならないと同時に[…]国語学の学問的領域を拡大し、その体系を創造して行かねばならない。我々は、過去に於いて国語学が受けた言語学の恩恵と、国学の[…]業績を思ふと同時に、それを乗り越えて、明日の国語学の創造と発展とを企図しなければならない」(国語学会(一九四八)より)として、国語学会が成立した。だが、実質的には殆ど何も為せぬまま戦後を迎える(名称を日本語学会とする動きがあったかは知らぬが、意外にも、国語学会の方が戦後に生き延びられる名称であったようだ。傍証。日本の法律で、この言語に言及するときは「日本語」と呼ぶのが常だが、『学校教育法』(一九四七)『刑事訴訟法』(一九四八)だけは「国語」を用いている。この時期、如上の時局に乗った「日本語」は〈危うい〉目を見たのかも知れない)。
 敗戦翌年から公開講演会、会報頒布、四七年には国語学基礎講座と、国語学会は活発に活動を始め、一九四八年、機関誌『国語学』を創刊する。「発刊の辞」には「編輯方針の大綱」として.「学術的研究に関する論文」と並び「国語問題、国語行政に関する論説/国語教育並に一般的な国語の実践部面に関する論説」が掲げられ、事実、創刊号には保科孝一「国語の統一を強化せよ」が載る。
 やがて、学会の活動と『国語学』の編集は、国語問題や国語教育と距離を置くようになる。近年盛んな〈「国語」批判〉に対しても、反応は鋭くない(ただし、彼等の論に事実誤認や調査不足が目立つのも事実。例外は自称「元国語学徒」の安田(一九九七)。また、京極(一九九三)の政治性の抑制は感動的でさえある)。

四 またも日本語学か
 一九八〇年代から、また「日本語学〜」を書名に掲げるものが目立つようになってくる。最近では「国語学〜」を圧倒する勢いである(大学で「国語学」関係が〈寄生〉する「国文学科」も「日本文学科」に改称し、科目名も「日本語学〜」が主流になっている。ただし、この変更は、既存の「国語国文学」のあり方に反省を加えた結果というよりも、それが流行らなくなったので、目先を変えてみたという側面が強い)。〈歴史の垢〉にまみれた「国語学」よりも、客観的な「日本語学」の方が、専門科学の名称として相応しい、というつもりだろう。
 しかし、前述のように、「日本語学」も、なかなかに〈負の遺産〉を背負っている。また、言語接触やピジン・クレオールの問題が注目を浴び、〈独立して安定した体系としての個別言語〉という擬制に疑いが生じている時期に、〈日本語〉なる対象を持ち出して安心することが〈科学的〉な方途と考えられるのだろうか。一方、〈国語〉は〈国民国家〉の枠組や〈言語帝国主義〉〈言語権〉といったことが問われつつある昨今、極めて今日的な課題として浮上しつつある(〈「国語」批判〉もその一環と言える。亀井(一九三八)が想定してみせた「国語学」への道とも言えるか)。このような時期に、この学会が、わざわざ「国語学」の名を捨て、「日本語学」などと名のろうとするのならば、それは勿体ない話である。


 文  献
上田万年(一八九〇)「欧米人の日本言語学に対する事跡の一二」(『国語のため 第二』、冨山房、一九〇三)
上田(一八九四)「国語と国家と」(『国語のため』、冨山房、一八九五)
上田(一八九五)「帝国大学文科大学に国語研究室を興すべき議」(『明治文化資料叢書』八、風聞書房、一九六一)
上田(一九八四)新村出筆録・古田東朔校訂『上田万年 国語学史』(教育出版)
国語調査委員会(大槻文彦)(一九一七)『口語法別記』(文部省)
亀井孝(一九三五)「日本言語学のために」(『亀井孝論文集1日本語学のために』、吉川弘文館、一九七一)
佐久間鼎(一九四一)『日本語の特質』(育英書院)
国語学会(一九四八)「国語学会の成立とその使命」(『国語学』1)
国語学会(一九八〇)「国語年表」(『国語学大辞典』、東京堂)
京極興一(一九九三)『「国語」とは何か』(東苑社)
イ・ヨンスク(一九九六)『「国語」という思想』(岩波書店)
安田敏朗(一九九七)『帝国日本の言語編成』(世織書房)
――日本女子大学教授――

(原文の縦書きを横書きに改めています)

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