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《誌上フォーラム:「国語学」と「日本語学」》
方言研究からみた「国語学」「日本語学」
方言研究という特定の立場からこの問題を眺めた場合,「国語学」より「日本語学」の名称の方が望ましいのではないか,という意見を簡単に述べる。
「国語学」に使われる「国語」には,もともと国家の言葉,標準語という意味合いが強く,それは現代に至るまで引き継がれている。近代方言学の夜明けを告げる国語調査委員会の全国調査も,「国語」,すなわち標準語の制定に供するのが趣旨であった。標準語に奉仕する方言研究という立場はもちろん意義があるが,そればかりでは方言研究の発展は望めない。幸い現代では,標準語を相対化したり,それにとらわれない方言研究が活発である。しかし,「国語学」の「国語」に標準語という含みがある以上,方言のための方言研究が,周辺的な課題とみなされかねない不安がつきまとう。
「国語学」で歴史を扱う分野を「国語史」と称する。この国語史とは第一義的に中央語の歴史を指す。その背景には,国語と言えば標準語であり,歴史的に標準語に当たるのは中央語である,といった暗黙の了解が存在する。しかし,地方語史と中央語史との連繋による広義の方言史の解明は,史的研究の究極の目的と言ってよい。そうした研究の展開は,従来の「国語史」という名称のもとでは窮屈な感じが否めない。
「国語」がもつ規範的な意味合いは,「国語学」の資料として,ともすると文献を偏重する傾向にもつながるところがある。史的研究には方言学的方法もあるが,両者の提携が十分活性化しないのは,「国語史」を支えてきた文献資料を,史的研究の一方法として思い切って相対化することに踏み切れないことがひとつの理由と思われる。
現代語研究にせよ,史的研究にせよ,方言を視野に収めた研究が目指されるべきである。標準語・中央語での記述が日本語としてどの程度普遍性をもつかは方言を観察することで初めて明らかになる。逆に,方言で発見された事実や観点が標準語・中央語に再検討を迫ることもありうる。この学問に興味をもつ人たちにとって,方言を視野に入れ,日本語全体として議論するのが常識である,といった時代の到来が期待される。
「国語学」が「標準」に傾くのに対し,「日本語学」は「変異」を広く包含しうるという印象が筆者にはある。したがって,上の議論からは「国語学」より「日本語学」の方が適当だということになる。もちろん,これは本質的には学問の中味の問題である。あえて「日本語学」がよいというのは,名称の変更が研究の再編を促す刺激になると思われるからである。なお,方言研究といっても違った見方もありえよう。他方,ここでの主張は,社会言語学も含めたさまざまな変異研究の立場に共通するものかもしれない。
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