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《誌上フォーラム:「国語学」と「日本語学」》
日本語学への道
実際のところ,国語学か日本語学かという選択は二律背反的なものではない。というのも,対象とする日本語という言語そのものに差異は存在しないからである。しかしながら今日その名称が問題となるのは,日本語研究に携わる者の認識論的視座が,具体的には日本語研究観が問われているためと見るべきである。例えば,国民国家形成と不可分な「国語」という言語編制に批判的な場合,従来の「国語学」という名称にはおのずと違和感を持つことであろう。
とりわけ,ポストコロニアリズム研究やカルチュラル・スタディーズの隆盛に伴い,言語の政治性について多く注目されるようになってきた。このこと自体は,学の相対性を高める意味でも極めて望ましい傾向である。しかしながら全く問題なしという訳ではない。拙稿(1998,1999)でも触れておいたが,初歩的な事実誤認も散見されるし,何よりもまず日本語研究の前提となる言語観に対する思弁が不十分であるため,多くの場合批判が表層的である。それでもこうした批判は学の発展に対して重要な契機となる以上,決して無視すべきではない。そして,今日おかれている流れから言えば,学の名称として「国語学」に拘泥することは,日本語研究が背おった負の歴史に対する隠蔽というようにとられかねない。事実そのように見る立場も存在する。形勢からすると「日本語学」に有利な状況なのである。
ところが,そうした「国語学」に対する負の視線を十分意識しながら,それでもなお「日本語学」という学の名称に躊躇する立場も存在する。ともすれば「日本語学」は現代語しかみない研究と思われているからである。さらに,この現代語偏重主義からアメリカ流の実用主義を感じ取り,学の純粋性が毀損される印象を抱いているとも考えられよう。日本語教育や現代語研究に成果をもたらした「日本語学」的研究は,そのかわりに良き「国語学」的研究の部分を捨象してきた傾向がある。いわば松下大三郎,佐久間鼎,三上章,寺村秀夫といった研究者の業績だけで研究史を編もうとしているようなもので,これでは逆に「国語学」がかわいそうというものである。
しかし結論から言って,学の名称としては個別言語学としての日本語研究であることをふまえた「日本語学」を是とするべきものと思われる。それは「日本語学」という名称において,従前の良き「国語学」的研究方法論を継承することが十分可能だからである。逆に「国語学」という名称のままで,日本語教育と関連した分野の研究を行うことは,はたして可能かという疑問が生じてくる。極端な例ではあるが「留学生の国語習得に関する国語学的研究」ではいったい何語の研究をさすのかよくわからない。日本語教育と密接な関係を持つ立場が「日本語学」を志向するというのもうなずけよう。
このように,社会における学の存立意義や学自体の発展性を考える時,従前の「国語学」の名称ではやや狭隘であるように思われる。「日本語学」に問題性をはらむというのは,いわば「日本語学」に従事する者の問題なのであって,そのことと学の名称とを混同して論じてはならない。困難な道のりかもしれないが,やはり国語学は日本語学として生まれ変わらなければならないのである。
ただ,学の名称を変更することによって,非政治的色合いを出そうとするならば,それもまた誤りである。かくいう「日本語学」という名称ですら,すでに明治期には出現しているし,大東亜共栄圏の下では,当然ながら「日本語」という名称も十分政治的であった。だからこそ「日本語学」となってすべてが精算されることなど,決してありえないのである。今回の問題提起がただの名称変更論に終わったとするならば,日本語研究に対する外的な批判は,事勿れ主義だとして一層強くなるかもしれない。
しかも,今日「国語学」と対置するかのごとき「日本語学」的研究のあり方は,「国語学よ,死して生まれよ。」 と叫んだ亀井孝の流れを汲んでいるとも思えない。その根本原因は,大仰に言えば歴史性の欠如である。いわゆる「日本語学」的研究において,言語の歴史的な動的体系や,言語を対象とした視線の歴史性を十分認識してきたのかどうかは,一部の場合を除いて疑わしいように思われる。そのためにも,「日本語学」研究においては,外国語との対照研究や日本語教育や誤用分析から出来した日本語研究を特化して,それらのみを「日本語学」であるかのように錯覚しない態度が肝要である。
以上のことをまとめると,日本語の動的体系変化を捉える日本語史や,日本語研究の史的相対化をもたらす日本語学史の研究を「日本語学」として行っていくことが,今後ますます必要だということになろう。
最後に極めて私な雑感ではあるけれども,昨今の歴史修正主義的風潮が求める次の対象は,「国民の国語」として成立する「母語=日本語」のように思えてならない。日本語運用能力の低下が叫ばれているだけに,ある種の流れが醸成されていかないかどうか十分に見据えていく必要があるように思われる。
亀井 孝 (1938)「日本言語学のために」(『日本語学のために 亀井孝論文集1』吉川弘文館,1971)所収
仁田義雄(1988)「国語学から日本語学へ」『言語』17-9
山東 功(1998)「国語学史批判の陥穽」『江戸の思想』8,ぺりかん社
山東 功(1999)「国語学か日本語学か」『江戸の思想』10,ぺりかん社
小松英雄(1999)『日本語はなぜ変化するか ――母語としての日本語の歴史――』笠間書院
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